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Chapter1:序章

1.1 研究の背景-グローバルな土壌水分情報の重要性とその推定法-

渇水対策のためには数ヵ月先の降水量予測が, 長期にわたり使用する社会基盤施設計画には 温暖化などの地球環境変化にともなう水資源の変動を予測することが 必要となる. このためには, 従来の水文学で用いてきた確率的な降雨の取り扱いでは 不十分であり, 水循環を気候システムの一部として解明する必要がある.


気候システムの中で地表面の果たす役割は大きい. 地表面は, 大気の下部境界であり大気との間で 水とエネルギーの交換を行なっている. 水については降雨により大気から地表面へ, 蒸発散により地表面から大気へ移動する. エネルギーについてはおもに太陽エネルギーを吸収した地表面が 顕熱と潜熱(蒸発散に伴う気化熱)の形で大気中にエネルギーを伝達している. 地表面の土壌内に含まれる水を土壌水, その量を土壌水分と言うが, 土壌水は蒸発散により大気へ供給される水の供給源であり, 土壌水分の変化は蒸発散量の変化に影響し, その結果顕熱と潜熱の比(ボーエン比)も変化する. この変化がさらに, 大気の安定度などを変化させ, 気候システム全体にまで影響をおよぼす. 気候システム(とくにその変動)に何が影響をしているのかは 非常に興味深い問題である. 数年周期で起きるペルー沖の海水面温度の変化が 地球上の気候に影響を与えるという エルニーニョ現象はよく知られている. 土壌水分についても, 気候システムとの関係を調べた研究は多く行なわれている. 気候を再現する数値モデルを利用し, 初期値として与える土壌水分を 変化させると再現される気候にどのような影響があらわれるのかについての研究は 多く行なわれており, 土壌水分の変化は次の季節における降水量に影響する といった興味深い結果も示されている (例えば, Fennessy and Shkula, 1999など). 毎日利用する天気予報にも, 数値モデルが使われているが, この数値予報にも土壌水分の値を初期値として与える必要がある. 12時間から72時間程度の短期予報の場合には, 土壌水分の影響は強くなく, 高低気圧の予報精度は比較的よい. これに対して, 月, 年単位の時間スケールの中長期予報は 十分な精度が得られていないと言われている(沖,1999). この原因の一つには, 予測時間が長くなるほど予測精度が落ちるという 数値計算共通のものがあるだろうが, 中長期予測では大気と地表面の相互作用の影響が重要であるのに 地表面過程を現在のモデルが十分には表現できていないこと, そして土壌水分データが未整備であることも無視できない原因だろう. このように, 土壌水分情報は気候システムを通した予測にとって重要なものであり, 現業の数値予報の立場からは, 現時点での土壌水分の変化を刻々と監視するシステムの構築が, また気候変動などを研究する立場からは, 過去の土壌水分についての情報の整備が望まれる.

土壌水分を計測・推定する方法は大きく分けると3つある. まず1つ目は, 土壌のサンプリング等の方法による 現地における直接観測である. しかし, 土壌水分の直接観測はほとんど行なわれていない. この一つの原因は, 土壌水分の計測が気温などの計測と比べて難しい ためである. 日本では, 農業・林業関係の試験所や研究所で行なわれているのみで, データの利用は研究目的に限られている. 世界で見ても, ロシアにおける観測が取りまとめられており(Vinnikov et al., 1997) 数値モデルによる推定結果との比較・検証が行なわれているが(Robock et al., 1995 ) 大陸全域を覆うほど代表性の高いデータセットは現在のところ存在しない. そもそも, 土壌水分量は植生や土壌に依存する非常に局所性の強い物理量である. このため, 点スケールでの直接観測からグローバルな情報を導くことは容易ではない. 2つ目は, 数値モデル等を利用する方法である. この方法に含まれるものとして以下のようなものがある.

a)地表面近くの大気データから推定する方法.
土壌水分は地表面近くの大気に影響を与える. とくに, 土壌水分量が高く(低く)なると地表面付近の 温度は下がり(上がり), 湿度は上がる(下がる)ことが知られている. この関係を利用して 気象業務の中で広く観測されている温度や湿度のデータから 土壌水分を推定する方法である(Mahfouf,1991) この方法は, 必要となるデータの入手が容易である利点があり, 大気の移流が少ない場合には有効とされている. Bouttier et al.(1993a; 1993b)はこの手法により推定した土壌水分を数値モデルに同化(数値モデルの計算結果を修正)した. この手法は, フランス気象局(Meteo France)で実際に用いられている.

b) 地表面モデルのオフラインシミュレーション
地表面モデル(LSM=Land Surface Model) は, 地表面の水熱収支を再現する数値モデルである. LSMには, 比較的シンプルに降水・蒸発・流出を表現したバケツモデルのようなものから, 土壌を数層に分けたり植物の光合成やCO$_2$のバランスを考慮したような高度なものまである. 例えば, BATS, SiB2(Sellers et al., 1996b)などがある. 近年その開発が精力的に進められている. このLSMを単独で使用し, 日射・風速・降水量などの気象データをLSMに外力として与えて積分し, 地表面の土壌水分やフラックスを求める方法である. この手法はc)の方法に対して, オフラインシミュレーションと呼ばれる. この手法ではa)の手法に比べて, 必要となる外力データが多い. 全球土壌水分計画(GSWP=Global Soil Wetness Project)では 複数のLSMに共通の気象データを与えて, 1987/88年2年分の計算が 行なわれている.

c) 地表面モデルと気候モデルを結合したオンラインシミュレーション
LSMを 大気大循環モデル (AGCM=Atmospheric General Circulation Model) などの気候モデルに結合して数値シミュレーションする方法を b)の手法に対して, オンラインシミュレーションと言う. この方法はオフラインシミュレーションに比べた場合, 外力データを与える必要がなく(気候モデルで計算される), 大気と地表面の関係も相互作用として表現されており, 理論的には優れていると言える. しかし, 現在のところAGCMによる気候の再現精度は十分とはいえず 定量的な予測の信頼度は低い. b), c)のいずれの方法も精度の向上には数値モデル自体の改良が必要である. そして, 3番目が衛星観測(リモートセンシング)の利用である. 衛星観測とは人工衛星に搭載されたセンサにより, 対象物から放射・散乱・反射された電磁波等の強度を計測することである. 衛星観測には, 現地観測と比べて, 広域を観測できる・砂漠や海上など現地観測の困難な領域でも観測できる・計測法が均一である・周期的かつ定常的な観測ができる という長所がある(気象庁, 1999). その反面, 計測された電磁波に関する量から必要な物理量をいかに 取り出すかという大きな問題がある. 一般にこの問題は, 利用できる独立した情報より未知数の数が多い逆問題である. 土壌水分の衛星観測については, 第2章で詳しく述べることにする.

土壌水分情報の推定にあたっては, 以上の3つの手法いずれも完全ではなく, 組み合わせて使用することが必要になってくる. 衛星観測だけから, 逆問題をといて推定することは困難または不可能であり, また数値モデルによる計算結果には モデル固有のバイアスが含まれるために 衛星観測や直接観測を利用した検証が必要である. 数値モデルでは土壌水分を地表面での水と熱収支の式を解くことで求めているのに対して, 衛星観測ではたとえばマイクロ波の場合誘電率の変化という水の電磁気学的性質を利用しており, 異なる角度からのアプローチであるので検証方法としては有効だろう. さらにいうと, 数値モデルと衛星観測を 単に相互検証するのではなく, 同化手法の確立が必要である. 同化手法とは, 数値モデルで推定した結果を 最新の観測値を用いて「修正」することである. 数値モデル, 衛星観測それぞれの「信頼度」をあらかじめ決めておき, それに応じてもっとも信頼性の高い値を解析値として作成する. 同化手法の利点に, 逆問題を解くことなく衛星観測値を利用できることがある(ただし, アルゴリズムに変分法と呼ばれる手法を用いる場合. 最適内挿法などでは逆問題を解く必要がある). また, 作成した土壌水分情報が数値モデルに合致した形式で利用できる. 衛星観測だけでは, その情報を数値モデルに利用する際に, 土壌水分の定義の違いにともなう定義の変換, 時空間の内挿といった問題が生じる. 同化手法は大気に関する物理量---たとえば気温, 水蒸気量---などについては 開発されており, 現業の数値予報でも用いられている. 今後, 土壌水分の同化手法の開発が, グローバルな土壌水分推定のための 鍵になると思われる. 直接観測についても点スケールでの信頼度の高い情報として必要である. 数値モデル・衛星観測の検証用に利用するほか, グリッド内の不均一性を考慮する際にも必要な情報であろう. 様々な条件下における継続的な土壌水分観測が重要である. (図1-1).

1.2 研究の目的および特色

本研究では, グローバルな土壌水分推定において, 未だ困難な部分の多い土壌水分の衛星観測について, 新たな知見を与えることを目的とする. 具体的には, 衛星搭載降雨レーダの 計測する後方散乱係数から 土壌水分の推定を行なう. 最近(1997年11月)打ち上げられたTRMM(Tropical Rainfall Measuring Mission=熱帯降雨観測衛星)に 搭載されているPR(Precipitation Radar=降雨レーダ)---以下TRMM/PRと表記---は史上初の 衛星搭載降雨レーダである. TRMM/PRが地表面の後方散乱係数を 計測していることに注目し, 能動型マイクロ波センサとして土壌水分計測に利用できないかというのが 本研究の発想である. TRMM/PRを利用した土壌水分計測に関する研究は 自分の知る限り本研究以外に行なわれておらず, 世界で初めての試みである. TRMM/PRのシステム(入射角, 周波数, 解像度など)は, これまでの研究で用いられている能動型センサとは 大きく異なる. このため, アルゴリズムなどはこれまでの研究とは違ったものが 必要である. これまでのセンサでは難しかった 植生に覆われる地域の土壌水分に関する情報を 得ることも期待できる. また, 本研究はグローバルなスケールで ---センサの軌道の都合で, 熱帯域だけに限られるが--- 数値モデルと衛星観測の 両者を比較している. こうした研究は, まだそう多くは行なわれていない.
とくに, 能動型センサはその解像度の高さゆえに, 流域スケールに適用されることがほとんどであり, グローバルスケールで取り扱われることは珍しく, 本研究の特色の一つとなっている.

1.3本論文の構成

本論文は全6章および補遺からなる. その構成は以下のようになっている. 第1章では, 気候システムにおける全球土壌水分情報の重要性とその推定法をまとめて本研究の背景を明らかにし, 本研究の目的とその特色を述べた. 第2章では, 能動型マイクロ波センサを用いた土壌水分計測 の原理・既往の研究などをまとめ, さらに, 本研究で使用するセンサTRMM/PRの特徴を明らかにした. 第3章では, 本研究で用いたグローバルデータの概要や グリッド化などについて説明している. 第4章では, TRMM/PRの後方散乱係数に地表面物理量が及ぼす影響について, グローバルデータを用いた観測事実を, 植生を考慮した散乱モデルが示す理論的な結果と比較することで示した. 第5章では, 後方散乱係数から土壌水分を推定するための アルゴリズムを作成し, 1998年の土壌水分推定に適用した. 第6章では, 本研究の結論と今後の課題を述べている. 補遺として, タイ・スコータイにおける土壌水分 現地観測データと本研究により推定された値との比較を示した.

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