はじめに

 以下の資料は,2000年4月14日に行われた東京学芸大学自然史ゼミ(→参考:http://www.u-gakugei.ac.jp/~koizumi/seminar/)で筆者が配布した資料−MS Word2000形式−を加筆訂正し,をHTML化したものです.原文はA4白黒コピー6枚です.対象を学部学生としているのでいささか説明過剰な感じがあり,また釈迦に説法的なことがたくさん書いてありますがご容赦ください.ただしこれでも筆者の言いたいことの半分も表現できていないような気がしていますが(苦笑).

 また,当日発表に使用したプレゼンテーションの内容も公開しています(Microsoft Powerpointファイルおよび,それを自作アドインでHTMLファイルに変換したもの).なお,スライド内の写真はすべて安形が撮影したものです.また地図等は神奈川県資料によるものです.というわけでスライド内容の勝手コピーはご遠慮ください.

参考URL:私と同時に,あるいは私たちと同様に現地を見て回った方々のレポートを集めてみました…のはずが,いつのまにか報道記事etc.も混じっています.なお,★のついたサイトはリンク許可を得ています.

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河川地形学的視点から見た玄倉川キャンプ水難事故

−現地見学会報告と提言−

安形康 (東京大学生産技術研究所 第五部 虫明・沖研究室 リサーチアソシエイト)

AGATA, Yasushi (Research Associate, Hydrology and Water Resources Laboratory, Institute of Industrial Science (IIS), Univ. of Tokyo, Tokyo, Japan)

mailto:agata@iis.u-tokyo.ac.jp


1 はじめに

 1999年8月13日夜から14日午前中にかけて日本列島を襲った「弱い熱帯低気圧」(注1) は,関東地方一円に大雨をもたらし,お盆休みのアウトドアレクリエーションを楽しんでいた多くの人々が様々な被害をこうむった.その最たるものが,神奈川県山北町で起こったキャンパー水難事故である.これは河川敷中央でキャンプしていた団体が増水のため両岸のいずれにも渡れなくなり,必死の救助もむなしく18人が濁流に流され,うち13人が死亡するという痛ましいものであった.また同時に,道志川においてもキャンパー2名が同様の事故で命を落としている.

 この事故に対して,河川にかかわりの深い専門家間でも,このような悲劇の再発を防ぐために何かできることはないかという問題提起がなされた.河川環境管理財団(東京都中央区) (注2)では,そのような問題意識をもつ専門家を集めて,それぞれの専門の立場から今後の河川行政やアウトドア愛好家への有効な提言を行うようプロジェクトを発足させた.

 それに呼応した水文学者・砂防関係者・河川管理者等が,今年の1月に集まって,事故の余韻がほぼ去った後に現場を見直したら何か見えてくるかもしれないという目的で現地視察を行なった(もちろん,河川環境管理財団の援助を受けている).筆者もそれに参加し,事故現場およびその上流の小ダムを見学した.またその後個人的に再訪し,上流の様子をつぶさに観察することができた.今回はその観察で得た知見を紹介し,あわせて河川地形学の視点から見た従来型河川危険認識法の問題点および今後の研究課題にも言及する.


注1:これは当時の呼称.要するに台風の弟分で,実際にはきわめて危険な存在.「弱い」という表現はこの事故の後使わないようになった.

注2:http://www.kasen.or.jp/参照.



2 事故の概要

2.1 現場

 事故現場は,酒匂川水系三保ダム(流域面積158.5km2, 有効貯水容量5.45*107m3)の主要な支流の一つである玄倉(クロクラ)川の河川敷にある(図 1)[→スライドA,B].当地点は三保ダムのダム湖「丹沢湖」[→スライド]のバックウォーター直上にある立間堰堤(堤高14m,堤長37m, 現在の落差約7m)上の堆砂地で,河床幅は約100mである(図 2)[→スライド].

 右岸側すぐ上流では支流から大量の土砂が流入して沖積錐を形成しているが,右岸のそれより下流側(攻撃斜面側)は岩壁が露出した急峻な谷壁となっている.一方左岸は蛇行の内側となり,草付のある堆積面が広がっている.平常時においては,流路は右岸側または左岸側に極端に寄った一本の流れとなっているようである.

 事故現場直下流にある立間堰堤には三保ダムの施設である水位観測所があり,事故当時の詳細な水位記録が得られている.

 この地点は車の乗り入れが一応禁止されてはいるが,実際には多くのキャンパーが車で来訪していて,かなりの人気キャンプサイトであるらしい.


2.2 流域の様子

 玄倉川の集水域面積は約37.5km2である.全体的に急峻な渓谷が続き,谷壁斜面も急傾斜である.事故現場から約3.5km上流左岸谷壁には青崩とよばれる顕著な崩壊地がある.さらに上流には渓谷美で知られる小川谷・ユーシン渓谷などの支流があるが,1972年の豪雨災害で甚大な被害を受け,小川谷の有名なゴルジュ(注3) は半ば埋まってしまったらしい.

 ただし本流の渓谷は,ゴルジュが流路全体に渡って続くというわけではなく,所々ポケット状に河床が広がるところがある.そのような個所の直下流では大規模な砂防ダムが建設され,その上流に広大な堆砂地が広がっている.ちょうど事故現場と同様の地形配置である.

 事故現場から約4km上流には玄倉ダムという発電用取水堰がある.これは幅30m弱のゴルジュにぴったり収まっている堤高15mの堰堤であるため,貯水池の有効容量はわずかに4.2*104m3程度しかない.「ダム」という語感からは遠く離れている代物で,もちろん洪水調節機能は持たない.このダムでは平常時には最大2m3/secの取水を行い,事故現場直下流にある発電所に送水している.従って平常時には,事故現場の流量はそれほど多くないようである.

 玄倉川ぞいの車道は,本来はすべて一般車両の通行は禁止されている.ただし実際には,事故現場から約2km上流のゲートまでよく一般車が入るらしく,キャンパーが目立つそうだ.一方その上流は歩いていくしかないため,さすがに人の影は少なくなる.


注3:両岸が切り立ち,基盤床となっているかまたは河床がすべて水面となっている峡谷.[→本文へ戻る]


2.3 事故の概要 (注3)

 1999年8月13日15時から降り出した雨のため玄倉ダムの流入水量はやや上昇し,20時には25mm/hの強い雨となった.さらに今後大雨の予想があったので玄倉ダムは放流を開始した.放流に先立ってダムの担当者が玄倉川ぞいのキャンパーに注意を呼びかけ,またサイレンを鳴動させた(「警戒体制」というらしい).ただし雨がやがて降り止んだため,このときの放流は大きいものではなかった(立間堰堤地点で約45cmの水位上昇.以下水位記録はすべて立間堰堤のもの).

 14日2時からは降雨が再開した.初めは前日より弱い雨であったが,8時頃に25mm/hの強い雨になった.ちょうどその頃から急激に水量が増加し,玄倉ダムは本格的に放流を開始した.当然ながら,今回も放流に際して職員巡回・サイレン鳴動が行われている.また,天気予報から大雨が予報されたため,警官も巡回している.これに対して当時玄倉川にいたキャンパーはほぼ全員が避難している(前日にすでに引きあげている人もいる)が,事故現場の21名のうち18名だけは,警官の警告にも従わず立ち去らなかった.

 8時30分頃,水位は100cm(普段より85cm程度高い)に達していた.この時点ですでにキャンプ地の両側に強い流れが出来ていたと思われ,18名はどちらの岸にも戻れなくなっていた(注5) .

 8時30分ころ,警察・消防に通報が入った.救助隊が駆けつけたが,リバーレスキューの専門家がいたわけではないためなかなか有効な手は打てなかった(注6) .そのうちに水位はますます上昇してきた.警察は玄倉川ダムの放流(この時点で約100m3/s)を止めるように要請し,11時頃にはダムもそれに一時的には応じて放流用ゲートを閉じた.しかし,前述のように玄倉川ダムの有効貯水量はごく小さいためゲートを閉めておくときわめて危険な状態になることが予想された .そのためわずか5分で,ゲートを再度開けることになった(注7).

 18人は河床の一番高い部分(注8)にて濁流に耐えていた.その地点での水位は,彼らの胸くらいであったようだ.しかし11時38分ごろ,多くの人が見守る前で18人は力尽きて流されたのであった.

 18人のうち助かったのは5人であった.うち一人は赤ちゃんで,偶然にかそれとも誰かが放り投げたのか,全員が流された直後に左岸側(救助隊がいた方)に流れ着いたところを拾われた.また,別の4人だけが流れが右岸側岩壁に当たるところ(攻撃斜面)でその岩壁にしがみつくことができた.岩壁にたどり着いた4名に対する救助は,その後さらに強くなった雨脚(30mm/hに達した)のために難航したが,結局自衛隊等によるロープ張り・ボート等によって成功した.

 しかし残る13名については結局行方不明となり,後日全員の遺体が丹沢湖にて発見されることになった(注9).

 この事故はほぼリアルタイムで全国に報道されたという稀有な特徴がある.そのため,多くの人に衝撃を与え,また多方面に様様な議論を呼んだことは記憶に新しい.

 なお事故当時の累計雨量は約200mmであったが,事故後も強い雨があり,最終的には29時間で349mmの降雨となった.三保ダム管理の方の話によると最大流入量はこの年最大の値であったらしい.ただしこの値自体はとくに珍しいものではなく,毎年一度は起きるというレベルであったそうだ.関東のほかの地域ではこの10年で最大の雨といった場所もあったようだが,少なくともこの事故現場では違うようだ.「未曾有の洪水による災害」「こんなことは初めて」といったコメントが的外れであることが分かる.


注4:筆者は重要なデータである事故前後の降雨量・立間堰堤地点の水位・玄倉川の放流量記録を県の方から頂いているが,これは自由に公開していいのかどうか確認していないので図自体の掲載は今日はしない.おそらく公開しても問題ないとは思うが,念のためである.

注5:ただし,まだこの段階では,車のある左岸ではなく掘り込みの少ない右岸側にならば逃げることも出来たのではないかという説もある.車のあるほうに戻ることにこだわって逃げ道をなくしてしまったというわけだ.真相は闇の中であるが,可能性はある.河原キャンプでは,逃げ道の確保は最重要事項であるのだが….[→本文へ戻る]

注6:ロープを対岸に発射して救助しようとしたが,リードロープは固定できたものの救助用ロープは水圧が強すぎて張れなかった.[→本文へ戻る]

注7:玄倉ダムは玄倉川本流を直接せき止めているので,ここで流量調節が可能ならばその効果は大きかったであろう.しかし実際には,このダムでは放流量≒流入量であり,有効貯水量は約42,000m3であるから,もし貯水池が空であったとしても7分で貯水池が一杯になってしまう計算になる.貯水池が一杯になりオーバーフローをはじめるというのはゲート式ダムにとってきわめて危険な,「起こってはならない」事態であり,ダム全体の破壊すら予想される.万一そうなったら一気に流れ出した水は下流の救助隊をも巻き込んだ可能性があるし,最悪の場合は三保ダム自体に危機を与えたかもしれない.[→本文へ戻る]

注8:中央よりやや右岸よりで,立間堰堤より約2m高い.[→本文へ戻る]

注9:遺体捜索のため丹沢湖は水位を下げた.つまり当然得られる水の権利を放棄するはめになったのである(秋の雨が少なくなかったためあまり問題とはならなかった).せめてPFD(Personal Floatation Device.救命胴衣の親分ようなもの)を着けていれば,たとえ助からなかったにせよ遺体捜索はきわめて容易であったはずだ.なお,増水の危険が大きい河川近傍での行動(調査研究も含む)においては,各自がPFDを着けるのが理想である.[→本文へ戻る]



3 現地視察報告

3.1 はじめに

 この事故に対して,事故を犠牲者の個人的問題ではなく現在の河川管理に内在する構造的問題の発露として捉え,河川をよく知っているはずの研究者−具体的には土木工学(河川工学)者・水文学者・河川地形学者等−や河川管理者はどのように現状を改善し,どのような点を社会にアピールすべきか考えようという機運があちこちで高まった(注10).その一つが,水文学者メーリングリストhydroML(注11)で東大生産研の沖助教授が呼びかけたプロジェクトで,これは河川環境管理財団の助成を受けたものである.

 その取り組みは,まず一度現地に水文学者・河川工学者・河川管理者を集めて現場および流域を見学し,各自が得た知見に基づく議論によって河川研究者独自の視点から社会に益する成果を得てそれを公開しようというものであった.その現地見学会は,これは事故からずいぶん長くたってしまったが,2000年1月22〜23日に行われ,筆者もそれに参加していくつかの知見を得ることができた.以下はレポート風にそれらを紹介する.


注10:ただし,地形学者に関してはその直後に韓国で学会があって相当数が行ったため,直後の動きは他分野に比べると若干鈍かったかもしれない.筆者は行っていないから分からないが,多分学会の場では大きな話題となったことだろう.[→本文へ戻る]

注11:このメーリングリストについては,http://hydro.iis.u-tokyo.ac.jp/Hydro/hmlJ.html参照.[→本文へ戻る]


3.2 事故現場の見学

 現地見学の前に,参加者約25名全員の顔合わせと自己紹介があった.顔ぶれは,河川工学者・県庁職員・建設省職員が中心で,ちょっと変わったところではスポーツ法学者もいた.さて,自己紹介の中で,きわめて示唆に富む話を聞いた.研究者ではない人が,「私は数年前初めてこの現場を見たときには,素晴らしいキャンプ地だと思った」と言ったのである.つまり現場は,一見安全そうに見えてしまう場所らしいということがここで分かったのだ.いったいどういう場所なのだろう?

 さて,車で現場へ.現場は丹沢湖の湖面が尽きたところ(西丹沢ビジターセンターのあたり)から車で2,3分上流にいったところにある.実はビジターセンターのすぐ上で通行止めのはずなのであるが,実際にはゲートがないので一般車両がよく入り,そしてこの現場をはじめとしてあちこちの河川敷でテントを張るのだという(もちろん,正規のキャンプ場は一つもない).

←図3 事故現場詳細図(神奈川県資料に加筆).スケールはおおよそのもの.太い破線は現地観察時(2000年1月22〜23日)の流路位置で,上が上流側.その他の記号については本文参照.なお,地図作成時と現地観察時とでは河床形態がやや変わっていることに注意.(59KB)

 カーブに車をとめると,そこは事故現場を見下ろす絶好の地点であった.早速遠望により観察する[→スライド].現場は砂防ダム「立間堰堤」(図3(59KB)のA地点.以下「[A]」のように記す)[→スライド]上の堆砂地で,河床の幅は約100mと,上下流より広くなっている.流路全体は大きく左に蛇行しているが,水流自体は頻繁に位置を変えるようで,右岸側[B1]にも左岸側[B2]にも流路となりうる低まりがあった[→スライド](この日は左岸側[B2]のみを流れていた).そしてその中間に砂礫からなる,縦断方向50m,横断方向20〜30m程度,比高1〜2mの高まりがあった[C].ここが,18名が最後まで濁流に耐えていた地で,キャンプ地もこの高まりの中のどこかであったとされている.

 車道から河床に下りていく入り口[D]には「増水時のキャンプは危険です!」という写真入看板があった[→スライド].ただしこの写真は1999年事故のものではなく,それ以前の(人的被害が出なかった)ものであるらしい.重要なのは,実はこの看板は付近のあちこちに,事故より前からあったということだ.被害にあった人々は,天気がよくない中,この看板を目にしながらも河原キャンプを敢行したことになる.看板は無力なのだろうか.

 左岸側の河床に降り立つと,そこは幅15mくらいの段丘状平坦面[E]で,草が生えている.そこを下りて草のない河床を横断するように歩くと,2mくらいの掘り込みがある現在の流路[B2].目に付く最大礫径は20cmくらいであるが,まれに70cmくらいの礫あるいはコンクリ片が入っている.

 河床中央の高まり―事故現場―[C]は周囲より2mほど高くなっていて,そのトップは径10〜15cmくらいの礫と砂が目立つ平坦地である.なるほど,一見キャンプにはよさそうに見えなくもない.が,この上には草が全く生えていない.洪水時には水がきて礫が動くのは必定だ.それに増水時にはおそらく掘れこみの大きい[B2]の流路を横断して左岸側(車道側)に逃げるのは苦しいだろうから右岸側に逃げることになるが,それでは水が引くまで身動きが取れなくなる.

 その右岸側であるが,こちらには前述の通り掘り込みと流路跡(深さ1m幅5mくらい)があった[B2][→スライド].その底は主に砂で覆われていた.この流路跡は右岸の縁をたどっており,左岸とは異なり外側に段丘状地形を持っていない.攻撃斜面であるから当然ではあるが.

 さて,ここでいろいろな説明を聞く.最初に関心を持ったのは,当時水位がどれくらい上昇したのかということであった.すぐ下流の立間堰堤に水位観測所があったのだが,ここでの最大水位は190cmということであった.それにたいして見学時は15cm程度.つまり当時は,最大で人の背丈くらいは上昇したことになる.といっても河床には前述の通り2〜3mの凹凸があり,さらに堰堤の幅と堆砂地の幅は異なるので,直ちにキャンプ地での水位上昇を推論するわけには行かないが,大体の目安はつかめる.

 つまり堆砂地における水位上昇は50cmでも5mでもなく,おおよそ2mくらいと思っていいであろう.さて,そのような水位上昇を示すような痕跡,それも誰もがわかるようなものは見つかるであろうか?これが現地でぜひ見てみたかったポイントの一つだ.

 よくキャンプ指南書に書いてある洪水予測法は,谷の側壁に残っている木の枝等の残存物・側岸の泥の跡やコケの生え具合など,側壁に注目するものである.これはこの現場では通用するだろうか.そういう問題意識をもって(),特に洪水流が直接当たっている右岸側の側壁[F](露岩)を丹念に観察した.

 結果は,「普通の人が普通に分かるような洪水痕跡は認められない」というものであった(注12)[→スライド].

 次なる洪水推測法は礫径とその分布だ.礫径とその分布から大体の洪水水位の予測はできると(地形屋として)期待して行ったのであるが,どうもこれではうまくいかないようだった.というのは表面に見えている堆積物は,砂が非常に多いのできちんと表面を掘り返さないと礫径の読みようがないのである[→スライド].

 そもそもここは砂防ダム上の堆砂地なので,「自然の」礫径とは異なっていて,どうも礫径が小さくなっているようなのだ.また,そうでなくてはキャンプ好適地が広くできないのであろう.

 実は礫径が分かりにくいのはもう一つの原因がある.それは右岸の攻撃斜面に角礫が集積したルンゼ状の地形[G]があってそこから径10〜15cm程度の角礫が大量に供給され,それが河床に多く見られるのである.

 この右岸側はなかなか厄介な存在で,このルンゼ状のほかにも,上流約50mのところに支流が合流してきており,これまた多くの土砂を流し出している.そしてその土砂は小規模な沖積錐を形成している[H].

 ところがその沖積錐の存在が今回は役に立った.やっとここで,直接的に洪水時の水位を読み取れる痕跡を発見したのである.しかしそれは,言われてしまえば当たり前だが,それまでは予想もしなかったようなものであった.

 その痕跡とは要するに,沖積錐の下流端[I]が本流に切られている侵食崖である.崖といっても比高1mに満たないような小さいものであるが,延びている方向や分布からいって支流性ではなく明らかに本流の侵食によるものだ.小崖に見られる物質は粗砂から人頭大程度の大きさの礫であった[→スライド].

 流路は左岸側にあるので,この崖は現在では流水が当たっていない.また,その上端は右岸側の流路跡より1.5m以上高い(測量していないので確実にはいえないが,おそらく2m程度).ということは少なくとも過去に強い水流が右岸側を流れ,そしてその水位は2mに達したことを明瞭に示しているのであった[→スライド].


注:「そういう目で見てみるととたんにはっきり見えてくる」というものは,地形でも植生でも,とにかく自然にはたくさんあるものである.[→本文へ戻る]

注12:右岸の岩壁[F]には蘚苔類が多く生えていた.だから蘚苔類の種同定を行える人ならば水の当たるところとそうでないところの間に何らかの区別を見出せるかもしれないが,そういう人は「普通の」人ではないであろう.[→本文へ戻る]


3.3 上流の観察

 ここからは県の方の案内で玄倉川林道をさらに奥へ.途中2箇所のゲートを県の方の鍵で開けて進入する.もちろん一般車両は入れない.

 その理由はすぐにわかった.大変な悪路で,かつ非常に危険なのである.まず谷壁の傾斜が極めて大きい.それにもかかわらず斜面には角礫の堆積物が大量に溜まっている(注13)[→スライド].いつこれらが崩れてくるか分かったものではなく,実際に落石は多い.それに道は狭く当然すれ違いはほぼ不可能…といった具合だ.ついでに言うと,この日は道があちこちで凍っていた.

 よく考えたら,玄倉ダムの職員は豪雨が近づく中この道を往復して放流警告・道路巡回等に回ったことになる.仕事とはいえ大変なことだ.場合によっては命が危ない.

 事故現場からすこし上流に行った地点で河床礫径が1mを越えているのを発見.というより,これより上流では1m程度の礫はいくらでもあった[→スライド].玄倉川は全体的に急峻なゴルジュが多く,そしてその間に小広い堆砂地が挟まっているという状況であった.これがこの河川の真の姿なのだろうか.しかしそんなことは事故現場周辺の様子からはなかなか「読み」きれないのであった.

 壮絶な眺めの崩壊地「青崩」をトンネルで突破して玄倉ダムへたどり着いた.「ダム」というのは堤高15m以上の堰堤を指すことになっている.玄倉ダムは堤高15mだからぎりぎりその範囲だ.しかしその規模やロケーションは普通「ダム」という言葉を聞いたときに普通に想起するものとはまるで異なっている.

 この「ダム」はゴルジュの中にすっぽりはまっている[→スライド].これ自体はそう珍しいことではないが,実は堰堤上流までゴルジュが続いている.そのため,そして堰堤自体の規模が小さいため,貯水池は本当に小さいものでしかなく[→スライド],前述のように貯水容量はわずか42,000m3しかない.普通のダムと比べると桁が3つは小さい代物であった[→スライド].

 さて,事故当時にはこのダムが現場のすぐ上流にあるかのような報道があったがもちろんこれは誤りである.実際には4km上流なのだ.また,そもそも洪水調節能力は持たないしそんなことを行ったら危険であるのだが,そのことに触れない報道もあった.

 実はこの翌日,事故直後の報道をビデオで見る機会があった.その中でとんでもない番組があった.この玄倉ダムの紹介のところで,まず上記のようにこのダムが事故現場直上にあるかのような地図を示している.そして,ダムに言及している間,三保ダムの大量放水の画像を流しつづけている!もしかしたら,これを見た―そして後追い報道を見なかった―視聴者の中には「事故現場のすぐ上に巨大なダムがあり,その"非人道的な"放水によって13名の命が失われた」なんて誤解をした人がいたかもしれない.いや,もしかしたらそういう人は今でも大勢いるかもしれない

 事故直後の報道においては,おそらくこのダムの映像をTV局は持っていなかったのであろう.だから三保ダムの映像を代わりに使うというのはそれはそれでしょうがないことであるのだが,ならば「この映像は事故現場下流の大規模ダムのものです」云々とテロップくらい表示するのが筋というものだろう.

 ダム悪者論は分かりやすく,そして結構ウケがいいのかもしれないが,今回に関しては,本質的問題はもっと別の場所にある.

 閑話休題,玄倉ダムを見終わった我々一行はさらに上流を目指し,熊木ダム(ここでも取水し,玄倉ダム直上流の発電所まで送水している)やユーシンロッジを見学した.途中地質が結晶片岩から花崗岩類に変わるところの斜面形態・河床堆積物の変化や,熊木ダム周辺でみたFagusの落葉が印象的であった.


注13:これは1972年の豪雨災害時に生産されたものかもしれないが,未確認.[→本文へ戻る]



4 得られた知見のまとめと考察

4.1 キャンプ地の地形的位置について

 上述のように,事故現場は砂防ダム直上であった.砂防ダム上の堆砂地は,キャンプに適した次のような特性をもっている

  1. 勾配が緩いため,相対的に河床物質の粒径が小さくなる
  2. 川幅が広く,明るい雰囲気となる
  3. 上記とも関連するが,平常時に水の当たらない広い平坦面ができることが多い
  4. 車で行けることが多く,オートキャンプに適している

4.2 堰堤堆砂地における危険認識

 このように,キャンプ場として砂防ダム上が好まれているという可能性がある.さて,もしそうだとしたら,そのような場所ではどのように危険を読めばいいのだろうか.

 従来アウトドア指南書で指摘されている「側壁の洪水痕跡」については,少なくともこの事故現場では役に立たないようであった.これは流路が広く,水位上昇が大きくない砂防ダム上堆砂地において共通のものであろうか.もしそうだとしたら,従来型危険認識法は多くのキャンパーにとって役に立たないことになる[→スライド].

 そこで本稿では,それに変わる新しい危険認識法の一つとして,現地での観察結果から,側岸から供給される堆積地形の本流性侵食に着目した.これは従来指摘されることがなかった新しい「危険の読み方」である.


4.3 河川の特性とそれに応じた危険認識

 しかしながら,今回の事故現場では,たまたますぐ上流に沖積錐があったためこのようなものの見方が可能になったという可能性もある.すなわち,一般にどの場所でも通用するわけではないかもしれない.

 ただし,玄倉川はもともと土砂流出が多い河川であると思われる.そして,土砂流出が多いということは平常時に水の当たらないいわゆる「河原」が多くできることを意味し,ひいてはレクリエーションによく使われる川となる性格を持っている.つまり,キャンプ適地があるということと側岸から大量の土砂が供給されているということは独立の事象というわけではなく,河川の特性から両者が同時に導かれるという構造をもっていると考えられる.

つまり,玄倉川のように土砂流出が多い河川においては,

という図式が描ける可能性がある[→スライド].

 「河川の姿は多様である.だからどんな問題でも一概に”こうだ”と決め付けられるものではない」−研究者が「分かりやすい答」を求められたときには,こういう反応を返すことが多いかもしれない.しかし「一般の人のレクリエーションによく使用される場所」と限定すると,かなり画一的な環境となり,それなりに統一された環境の読み方・危険の予測法etc.が成り立つのではないだろうか?これらを確認し敷衍していくことは,多少は川の姿を知っている研究者としては避けて通れない責務ではないだろうか?

 ただし,堆砂地の地形そのものから危険が直接読めれば(注14)より理想に近い.この点も今後の課題となるであろう.


注14:事故現場でも人の背丈を越えるようなスケールの凹凸はある.[→本文へ戻る]


4.4 研究課題

 さて,これまで述べてきたことは幾つかの仮定の上に立っているので,それらを実証する必要がある.具体的にその「研究課題」を挙げてみよう:

  1. そもそも人々がどんなところでキャンプしているのか調査する(これについては神奈川県の資料がある)
  2. そこは「自然の」河川の状態なのか,そうでないとすればどのように異なっているのか,および
  3. もし「自然な」場所でないなら,そういう場所では如何にして河川の危険を読めばいいのか,を現地観察により観察する

調査自体はきわめて簡単.要は「目」をもっているかどうかです.さて,誰かやりませんか?[→スライド]



5 謝辞

 本研究は河川環境管理財団の助成を受けています.また,神奈川県職員の方には貴重な資料を多数提供していただきました.現地観察会参加者の皆様には,現場およびその後の討論会にて有益な議論をしていただきました.上記の方にお礼申し上げます.



6 余談

6.1 土砂崩れを止めた巨樹

 三保ダム上流の主な3支流のうち,真中にあるのが中川川.この川沿いの道をさかのぼると,眼前に突然巨大な杉が現れる.その道では有名な「中川の箒杉」である.この木は1972年の豪雨災害のとき,崩壊土砂がこの根元で止まったといういわれのある木である(本当かどうかは調べればすぐわかるのだがまだやっていない).[→スライド]

6.2 地形学的手法による洪水の読み方と古水文学

 「残存堆積物よりも侵食痕跡のほうが見やすい」ということは,実は河川地形学・古水文学の流れとも奇妙に符合する.つまり,

前者のほうが先に発展したのは,もちろんそのほうが分かりやすかったからである.さて,それではなぜ河川の危険の読み方として,後者に類する「側岸残存物着目法」ばかり広まっているのか,地形学者としてはちょっと考えなければならないような気がする[→スライド].

6.3 一見の価値ある現象

 事故現場から20分ほど歩くと,玄倉川支流の小川谷の谷壁に,結晶片岩のクラックから湧き出る大規模な湧泉がある.斜面の真中から湧いているので,いったいこの水はどこから来たのかと誰でも不思議に思うことだろう.特に地下水を研究対象としていなくても,十分見る価値のある面白い湧き水である.玄倉川現地調査を行う場合はぜひ寄ってみよう[→スライド].

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